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「ダカール」と「アート(フランス語だと「アール」)」をひっかけて、「DAK' ART」。という名のアート・フェスティバルが今、ダカールで開催されている。今年で7回目を数えるビエンナーレで、セネガルを含むアフリカ各国と、アフリカを離れたディアスポラのアーティストたちによる「アフリカン・コンテンポラリー・アート」が展示されている。
コンテンツには「DAK'ART "IN"」と「DAK'ART "OFF"」がある。"IN" は正式招待のアーティスト作品で、ダカール市街の主要なミュージアム4カ所に展示されている。"OFF" はそれ以外の種々雑多なアーティストたちの作品。会場も様々で、個人経営の小さなギャラリーやエアフランスなどのオフィス、学校、レストランなどが「DAK'ART "OFF"」のバナーを掲げて展示場所を提供している。その数はダカール市内とゴレ島合わせて116カ所にも及ぶ。絵画、彫刻、インスタレーション、映像、家具、表現方法は様々。すべて入場無料だが、現地の人の姿はほとんど見ない。見に来ているのはほとんど外国人だ。 私は、 "in" の4カ所は全部見た。戦争や貧困に対するメッセージ色の強いものが多かった。釘の刺さったアフリカ大陸とか、薬莢で作った倒れた兵士とか、あまりに表現がストレートかな、という印象をまず受けた。 もうひとつ私が感じた特徴は、「ブリコラージュ」の延長線上にあるものが多いということ。ブリコラージュとは、辞書にある意味は「手仕事、日曜大工」だが、セネガル流の解釈だと「廃物利用」だ。こっちの人たちは、何か必要なものがあってもいちいち買っていられないし、ちょっと壊れても捨てないでなんとか使い続けなければならない。そんなときに、彼らは実に器用にそのへんのもので代用品を作ってしまう。代表的なものはコーヒーやトマトソース空き缶で作った灰皿やおろし金。それが発展して日用品以外のものも作られるようになった。カラフルな自転車やバスなどの置物は、いまやセネガルの代表的なお土産のひとつになっている。 今回のビエンナーレでも、その手の「廃物利用」が目立った。ビンの王冠と、プラスチックのコーヒーの袋の上部を切り取った部分をつないだタペストリーや、歯を掃除する木の枝で作ったベンチ、コンピューターの基盤やCDを寄せ集めたコラージュ作品など。私には、「よくこういうこと思いつくね」「よくここまで集めてくっつけたね」という感心以上の感動は起こらない。むしろ、用の美をこともなげに体現している灰皿やおろし金の方が美しいと思ってしまう。これらの作品は展示されるやいなや、自ずと「廃物利用」というジャンルを作り、「アフリカ」としてまたひとつ、メッセージを発信する装置と化してしまうのだ。 "in" のアーティストの中で、ぱっと見て単純に「いいな」と思う作品があった。黒い段ボールみたいな紙にパステルで描かれた絵が壁いっぱいに貼られている。描かれているのはシンプルな線の人間。トランポリンで飛び跳ねているみたいにいろんなポーズで宙に浮いている。その線の自由さ、色のセンス、こういうところにアフリカン・アートの神髄があるのではと思った。 アフリカン・アートにはいくつかの「型」がある。みんなその「型」にはまろうとする。それは、「型」にはまらないと「売れない」、あるいは「認められない」とアーティスト自身が思っているからではないだろうか。 アフリカ人自身がアフリカに囚われている。選考委員はほとんどアフリカ出身だ。結果的に「アフリカン・コンテンポラリー・アート」になるのはいいが、最初からその枠組が出来上がってはいないだろうか。一度アフリカを忘れて単に「コンテンポラリー・アート」という視点で選考してくれれば、もっと面白い作品が見れたのではないかと思うが。 *「DAK' ART」は5月5日から6月5日までの開催。この日記、書いてアップするまでずいぶん時間が経ってしまったのでもう終わっちゃいました。 ![]() ![]() # by kuripiro | 2006-06-16 00:51
映画館みたいな名前だが、映画の話ではない。ちょうどダカールとゴレでのシネマウィークが始まる日ではあったが、都会の喧噪に疲れたので小旅行に出かけることにした。で、向かった先が「シネ・サルーン」。ダカールから海沿いに南へ200キロ弱。サルーン河の河口に出来た大きな三角州の一帯を指す。
セネガルという国は、アフリカの西海岸の一番出っ張ったところにある。大西洋に向かって吠えるライオンの横顔のような形をしている。このライオン型はセネガル人のお気に入りで、セネガル代表のサッカーチームのメンバーも「リオン(ライオン)」と呼ばれていたりする。ちょうど口の部分に、ガンビア河という大きな河があり、それに沿ってガンビアという別の国がある。セネガルがガンビアを食べているようにも見える。今回行ったシネ・サルーンは、ちょうどガンビアの上、ライオンの鼻の下に位置する。 ダカールからタクシーブルースとバスを乗り継いで4時間半くらい。途中のジョアルファジュという町から先は、舗装されていないでこぼこ道と、雨期には水に覆われる砂の大地を走る。まるでパリダカのようなルート。めったに対向車も来ないのでドライバーはがんがんとばす。ほんとにラリーのようである。タクシーブルースとは、乗り合いのタクシーで、日本ではとっくにスクラップになっているような車にぎゅうぎゅう詰めになるので乗り心地は最悪だが、遠出のときにはこれで我慢するしかない。ダカール市内で乗り降りするタクシーより安い値段で100キロ以上も走ってくれるのだから文句は言えない。 頭とお尻を交互に車にぶつけながらも、窓から見える砂埃に煙る地平線を見ていると、異国に来た、という感覚が久々に蘇ってわくわくする。 シネ・サルーンと呼ばれる一帯には、いくつかの町、村がある。事前情報が乏しく、どこに泊まったらいいか判断しかねた。私はとにかく少しでも遠くに行きたい質なので、海とデルタの防波堤のように細長くのびている砂州の突端まで行くことにした。それが、ジフェールと呼ばれる小さい漁村だ。ブロック塀にトタンやボロ切れをかぶせたようなバラックが立ち並び、村じゅうが魚臭い。 その村に入るすぐ手前、デルタ側の浜沿いに建つホテルに泊まることにした。敷地内の庭木はきれいに手入れされ、藁葺き屋根のバンガローが立ち並ぶ。久々のリゾート気分に心躍る。オーナーはもちろんセネガル人ではなくフランス人で、宿泊客も白人ばかり。でも料金は良心的でばか高くない。サービスもそれほどいいわけではないのでまあ無難な価格設定。 2日目、ピローグでクルーズに出た。ピローグというのはいわゆる丸木舟で、漁師はこれで漁に出る。細長い船体は白、青とセネガルの国旗の三色、赤、黄、緑で塗られ、美しい。セネガルの観光写真の被写体にも好んで選ばれる。クルーズに出るときは他の観光客と舟賃をシェアするのが経済的なのだが、私たちは仲間がいなかったので2人だけで一艘借り切り、高くついた。 私は鳥が見られればそれでよかったのだが、期待したほど海鳥はいなかった。アジサシ、アオサギ、シロサギ、ペリカンが2種類…。ペリカンはずっと北にあるジュージュ国立公園に行けば、いやというほどたくさんいる。ペリカンの群れの近くはすごく臭い。彼らの食べ残しの魚の匂いだ。ペリカンはあの大きいくちばしいっぱいに魚を呑み込むけど、全部は食べない。で、いらなくなった分を吐き出す。吐き出した魚は唾液で半分発酵しているからいっそう臭い。というのが私の勝手な推理だ。人間でもペリカンみたいな人がいる。ホテルの朝食バイキングで欲張って皿に取るけど、食べきれずに残す人。私か。 舟はまずジフェールのすぐ向かいのサンゴマールという島に向かう。この島はちょっと前までジフェールと地続きだったが、海水が浸食してきて分断されたそうだ。温暖化の影響か? マングローブに囲まれた土地の真ん中に、バオバブの木がニョキニョキと立っている。人をよせつけない神秘的な雰囲気。昔から孤島だったように思える。無人島なのだろうと思ったら、いまだに昔からのアニミズムを信仰する不思議な家族がひっそりと住んでいるそうだ。本当の話だろうか? 次に向かったのは、デルタの中でも比較的大きい砂州の上にあるジョンヌワールという村。大きなモスクと、石造りの建物、背の高いヤシの木のシルエットが近づくにつれて、漂流したシンドバットのような気分になる。いつの時代のどこの国? 13世紀頃に植民された島らしく、歴史が古いのは遠くからでも感じられた。 村に上陸するとすぐに、私はジョンヌワールが気に入った。なんだか平和な空気が漂っている。なぜだろう? 老人が多い? おじいちゃんと言っていい世代の人たちが、木陰で談笑したり昼寝したりゲームしたり、あるいは魚の網を編んでいたり、土産物屋で店番したり、のんびり過ごしている。平均寿命52歳のこの国では、いわゆる老人はあまり見かけない(寿命が短いのは乳幼児の死亡率が高いことも原因のひとつだと思うが)。 老人ていいもんだなあ、とへんなことを考える。子供も多い。子供はどこに行ってもたくさんいるが、この島の子供たちはひときわ人なつこい。そして何よりダカールや他の町と違うのは、何をするでもなくウロウロしている若い男がいない。漁に出ているか、町へ商売に出ているのだろう。セネガルの都会でストレスを感じるのは、若い男たちのたまりにたまった不満と絶望と焦燥が空気中にうずまいているせいではないかと、この村に来て思った。 ピローグを造っている人がいた。赤くて軽そうな材質の木の厚い板を組み合わせて、隙間にコーヒーや米の入っている麻袋のボロ切れをノミで打ち込んでいる。頑丈そうな舟だ。ムーニーもここで造ってもらえばよかったのに。 クルーズはこれで終わり。海の上を舟で走るのはそれだけで気持ちいい。ホテルに戻ってテラスでコーラを飲み、村の安い定食屋でご飯を食べたあと、バラックの一角のムサの友達の友達の暑い部屋で熱いお茶を飲んで午後を過ごした。 シネ・サルーンではほとんどの人が漁業で生計を立てている。毎日夕方になるとたくさんのピローグがすごい量の魚を積んで帰ってくる。生(なま)では消費しきれないので、大部分は干したり、発酵させたり、塩漬けにしたり、加工される。ジフェールの村にはロシア人の経営する大きな魚加工工場がある。435人の女性が働いていると、いやに具体的な数字をムサの友達が教えてくれた。ポルトガル人所有の製氷工場もある。鮮魚の輸送のためだろう。加工された魚はマリやブルキナファソといった、海のない内陸の国に運ばれる。干し魚は片面を3日ずつ、計6日間干すと、1〜2年は持つという。砂漠の民には貴重な保存食になる。それに、干した魚には生魚にはないおいしさがある。 ここの住民ではないのにこの辺の事情にやたら詳しいムサの友達が、日本企業もここで魚を獲っていると言う。彼らの敷地が泊まっているホテルのすぐ隣だというので行ってみたが、人の姿が見えなかった。 1日目の夕食は村の安い定食屋で魚のフライを食べたが、2日目はその10倍の値段のホテルのディナーを食べることにした(といっても日本円で一人1250円くらい)。レストランに行くと、日本人らしき人が一人で食事をしていた。ムサが「ニホンジンデスカ?」と声をかけると、そうだった。 「もしかして、隣で魚を獲ってる会社の方ですか?」 根掘り葉掘りいろいろ聞きたくなって質問を浴びせていると、席を薦めてくださったので一緒に食事をさせてもらった。 Mさんというその男性は、私企業の社員ではなくJICAのシニア協力隊員の方だった。セネガルにいる日本人はたいていJICA関係なのだ。彼は魚を獲っているのではなく、養殖の実験のようなことをやっているということだった。育てているのは、「チョフ」という魚で、日本では「ハタ」が一番近いけど、もっと大きいらしい。ヨーロッパでも人気の高い高級魚だそうな。ジフェールの浜にだーっと並んだ大量の魚を見ていると、毎日こんなに獲って、魚がいなくなっちゃわないのかな、と素朴な疑問を抱いてしまう。チョフは、大きいのが獲れづらくなっているそうで、Mさんは稚魚を捕まえてきて大事に育てているそうだ。養殖というより、保護に近いのか? Mさんは「青年」の頃から、もう20年以上海外協力隊員として活躍している。セネガルには、赴任以来1年くらいだそうで、任期は残り半年とのこと。魚のこと以外にもいろいろと興味深いことを教えてもらった。彼もふだんはダカール市内在住だそうだが、私たちと違って高級エリアにお住まいなので、住環境はだいぶ違うようだ。そんな話や、私がいつも気になっている水の話は、またあらためて書くとしよう。 翌日、私たちもMさんもダカールに帰る予定だった。「よかったら、乗っていきます?」という魅力的なお誘いに、ついつい甘えて、ダカールからお迎えに来た「政府公用車」で快適にダカール市内までお供させていただいた。ポンコツのタクシーブルースとは比べ物にならない乗り心地の「NISSAN HARDBODY」で、爆睡してしまった。 翌日、新聞で「ジフェール」の文字を見つけた。この漁港も、スペインへの不法移民の出発点になっているという記事だった。 ここのところ、不法移民関係の記事が目立つ。フランス内務大臣のニコラ・サルコジが移民食い止めの強硬策を発表したこともあるが、つい先日、恐ろしい事件があった。 ブラジル沖で、漂流しているヨットが漁師に発見された。そこにあったのは11体の腐乱死体。全員セネガル国籍の不法移民希望者と思われる、というのがその第一報。その後、乗員は全部で48人いたことがわかった。出航わずか3日後、ヨットにトラブルが発生。その後4ヶ月間、大西洋を西に向かう海流に流されてヨットは漂った。11人以外の、先に命を落とした人は次々と海へ投げ込まれた。地獄絵だ。彼らは移民斡旋業者に1200ユーロ払い、スペイン領カナリア諸島への夢の切符を手に入れた若者たち。お金を払った人のうち数人は、その頼りないヨットに命を懸けるのをためらって直前で出発をとりやめたらしいが、残りの多数は何が何でも国を出たかったのだ。遺族のひとりでスペイン在住のセネガル人男性は、この大量殺戮を犯した悪徳業者をスペイン政府は責任を持って追求すべきだ、と主張しているが、この手の業者は後を絶たないだろう。 このニュースから1週間も経たないある日、ジフェールからも同じような舟が(こっちはピローグ)スペインに向かった。乗り込んだのは、シネ・サルーン一帯の漁師村に住む若者たち。彼らは家族の住む家を売り払ったり、両親の釣り船のモーターを勝手に売り払ったりして、旅費を工面したらしい。 平和に見えたジョンヌワールの村からも、二度と戻らない若者たちが出て行ったのだろうか。それであんなに静かだったんだろうか。ジフェールからの移民舟は今後も続々と出航する予定だと、今回チャンスを逃した若者が語っていた。 あれだけ魚が獲れて、とうちゃんもかあちゃんもあれだけ働いているのに、どうして暮らしが楽にならないんだろう? どうして不満がつのるんだろう? ロシアやポルトガルの企業のせいだろうか? 私に夕飯を100円で食べさせてくれるからだろうか? JICAの人たちはどう考えているんだろう。アフリカのために日本からやってきても、アフリカ人は出て行く。空しくなることはないんだろうか? ![]() # by kuripiro | 2006-05-25 02:23
セネガルはイスラムの国なので法律上一夫多妻が認められている。この制度は我々には理解しがたいものがある。男にだけ法の決定権があったからまかり通っているような制度だ。「いや、これはこれでなかなかよくできたシステムなんだよ」とか、「女にとっても助かるのよ。困ることなんて何もないわ」とか当人たちは言うが、それは社会のシステムすべてが男中心に構成されているからその一部として一夫多妻がかろうじてうまく機能しているだけに過ぎない。言い換えれば、本質が隠されているから矛盾も隠されているだけだ。と言ったら言い過ぎだろうか?
ついつい言い過ぎてしまう傾向があるので、私はこの件に関して話題にしないようにしているが、たまたまきのうムサの友達とちょっとそんな話になった。 ムサの友達はいつも突然やってくる。しかも声をかけると同時にドアを開ける。うちにはプライバシーがない。きのう来た友達は、いつも私たちが夕飯の支度を終えたような時間にやってくるろくでもないヤツだ。きのうも夜の10時近くに現れた。しかも彼女付きで。案の定おなかぺこぺこで、ムサの作った「ニェベ」をむしゃむしゃ平らげた。 彼、マチューは彼女、アイダをフィアンセだと紹介した。「結婚はいつ?」と聞くと、マチューは笑いながら「さあ。そのうちだよ」と。そう言われてやっと気づいた。こっちの未婚のカップルはたいてい相手を「フィアンセ」だと言って紹介する。でもその言葉に大した意味はないのだ。それは婚約の契りを交わしたとか、両家の両親に認められたということを意味するわけじゃない(家族同士の決めた縁談の場合は別)。イスラム文化は男女関係に厳格なので、ただつきあってるだけでも「ガールフレンド」という言葉は軽すぎてなんとなく口にするのがはばかれるのだろう。 「でもね、ぼくはもうひとり妻をもらうんだよ。白人のね。で、彼女とは英語で話す。アイダとはウォロフ(セネガルの母国語)で話す。そうすればお互い何言ってるかわかんないから喧嘩にならないだろ?」と、マチュー。「そんなのうまくいきっこないじゃない。問題抱え込んであなたが苦労するだけよ」と、私。「いやいや、なんの問題もないよ」とマチュー。私はアイダに「それでいいの?」と聞いた。彼女はまさか、と言う顔をして「ノン!」と言う。もちろん女としてそれが本音だ。 「じゃあ、アイダももう一人旦那さんを持ちなさいよ。そうすればおあいこだもんね」 と私は言った。「ありえないよ。男は4人まで妻を持てるけど、女には夫はひとりだけって決まってるんだから」と、マチュー。「いやいや、そんなことないよ、今日の新聞見てごらんなさいよ。夫が2人いる女性の話が出てるから」と私が言うと、ムサが「そうそう、読んだよその記事」と。彼もくだらない三面記事を読んでいたか。 この国の男たちはチャンスがあれば国を出たいとみんな思っている。そして実際じつに多くの男たちが海外、主にヨーロッパへ出稼ぎに出る。その間、妻と子供はたいていここに残される。その新聞記事の女性もそうした妻のひとりだった。彼女は弱冠二十歳。子供はまだいなかった。夫が不在の間、彼女はさみしくてたまらなかった(「性欲を満たしてくれる相手がいなくて困った」と新聞は書くのだが)。それで近所の化粧品売りの男性と仲良くなって、その男とも結婚しちゃったのだ。何ヶ月後か、妻へのお土産をいっぱい抱えて帰ってきた夫はその事実を知り、ショックのあまり家を出てどこかに引きこもっているとか。この新聞は夫側に100%同情して、なんというあばずれ女という口調で書いている。しかしこれが日本で裁判になったとしたら、まず夫が夫としての責任を果たさなかったということになるんじゃないか? 不在の期間にもよると思うが。 出稼ぎの男性は、長いと5年も10年も黙って帰ってこないことがあるという。その間妻は未亡人状態で再婚も許されない。夫は海の向こうで何をしていようと妻には知る由もない。家族を呼び寄せる男性はほとんどいない。 この話をするとマチューが「僕の知り合いでもいるよ、夫が2人いた女性」。その女性は。自分自身が商売をしていて、モーリタニアとセネガルを行き来していた。彼女は結婚してダカールに夫がいたが、彼を残して度々モーリタニアに出かけ、向こうでも恋に落ちてモーリタニアの男性と結婚した。それぞれに子供も作った。ある日、モーリタニアの夫が彼女の行動を不審に思って、こっそり彼女のあとをつけてセネガルまで来た。そこでもうひとりの夫の存在を知った。彼女は窮地に立たされ、結局両方と離婚した。 結末は悲劇だが、女性も男性と変わらないことを示すいい例だ。一夫多妻を擁護する人の言い分はこうだ。「妻がたくさんいれば、男は浮気しないから」。これはおかしな理屈だ。浮気しないんじゃなくて、浮気を正式に認めているだけだ。夫が浮気すれば妻だって浮気したい。夫に性欲があれば、妻にもある。しかし、女からは一切それを行使する権利も力も奪われている。 でも私は男女同権を主張したいわけではない。「妻を何人も持ちたければそうすればいい。夫を何人も持ちたければそうすればいい。でも何人いても満たされないと私は思う。だって LOVE IS ONE でしょ?」と、ナイーブだが本質的なことを言ってみた。料理を温め直していたムサがとっさに反応した。「イェーイ! LOVE IS ONE!! That's right!」。 すると、マチューは弁解するように身の上話を始めた。 「実はぼくは結婚してたけど離婚したんだよ。21歳のときに。子供ができたんだけど、妻が子供におっぱいあげるのをいやだと言ったんだ。それでぼくは怒って実家に帰れって追い出したんだ。それからはずっと一人で息子を育ててきたんだ。子育てのためだけに再婚することもできたけど、愛のない妻なんてぼくはいらないからね」。 そんなことがあったのか。じゃあうちに来るときに息子も連れてくえばいいのに…。いや、ほんとは自分の母親にまかせっきりなんだろうな、と内心思いつつ、「そう、苦労してんのね」と同情しておいた。 マチューもヨーロッパ遠征を夢見る若者のひとりだ。もしヨーロッパに行くとしたらアイダも一緒に連れていくという。「一緒に行きたい?」と聞くと、彼女はまた「まさか!」という顔をして首をふる。「なら結婚はしない。留守の間彼女を縛っておくのはかわいそうだろう」と、紳士的に言ってみせるマチュー。アイダは美人で顔が小さくて足が邪魔そうなほど長くて胸は小さいモデル体型だ。彼女がヨーロッパに行ったら即刻スカウトされてパリコレ、アレコレひっぱりだこだろうな。そしてフランス人のセレブと結婚するだろうな。マチューは高額の慰謝料をもらって彼女を譲るだろうな。というストーリーが頭に浮かんだ。もし一妻多夫が許されていえば、マチューなんかそのまま放っておけばいいのだけど。そういうふうに虐げられている女性はいっぱいいる。 いやいや、女も4人夫を持てるようになったらかなりややこしい。とにかく「LOVE IS ONE」。シンプルイズベスト。欧米のラブソングに慣れ親しみ、一夫多妻の弊害を身を持って被ってきて、さらに複数の妻を養う経済力のない今の若者たちを見ていれば、この国もいずれ自然と一夫一妻が普通になっていくと思う。あまり熱くなって勝手な「ノーマリゼーション」を押し付けちゃいけない。もうこの話はやめとこう。 *写真はマチューとアイダの2ショット。もう一方はコンゴのアーティストの『一夫多妻の検討』という絵。 ![]() ![]() # by kuripiro | 2006-05-16 02:12
5月10日水曜日、奴隷制度廃止記念日。ヴィクトール・ムーニーの旅立ちと帰還から3日がたったこの日、その冒険の一部始終を地元新聞が伝えていた。なんとなくいまは彼を「ムーニー」と呼びたい気分なので、以下そうする(親しみを込めて)。
記事によると、ダカール港湾局が「舟底から水が入ってきた」というムーニーの電話を受けたのは日曜の午前11時くらい。出航から1時間ちょっとしか経っていない。当局はセネガル海軍のレスキュー隊を引き連れて現地に向かった。同じころ、海上にいた「パシフィック・ウォリアーズ」もムーニーのSOSを無線でキャッチした。現場に着いたのはパシフィックが先だったが、南アフリカ国籍である彼らはこの件に関して何の契約も交わしていないので、救援隊が来るまでムーニーを保護はしたが、彼の舟を引き上げることはできなかった。こうしてムーニーは「ジョンポール・ザ・グレイト」(舟の名前は前ローマ法王に捧げられた)が沈んでいくのを見守った。 「私なら二度とこんなことしようとは思わないよ」byダカール港湾局責任者。「その話聞いてみんなで大笑いしたんだよ」byニューヨークのカレッジで教鞭をとる彼の同僚。「彼は立派でしたよ、私は彼を誇りに思います」byハーレム市長(?)である彼の母親(と新聞は書いているが、本当の母親ではないと思う。ハーレムのゴッドマザーみたいな人で、私に『ハーレムに来たらうちに泊まりなさい』と言ってくれた、菅井きん似のおばさん)など、関係者のコメント。そして彼自身は「この航海はこれで終わった。僕たちの祖先が僕を無事島に送り返してくれたんだ。怖くはなかったよ。強い信仰心があれば何も怖くない。また挑戦するかどうかはわからないが、少なくともあの手のボートには二度と乗らないよ」と、今後については曖昧なコメント。この日、10日の午後に正式に記者会見を開くとあったが、その時点で彼がなんと語ったかはわからない。ただ、たった1時間、たった4マイルで終わった彼の「危険な冒険」、「100,000ドルの小舟」が一瞬にして海に沈んだことに対して、このときの新聞の口調は冷ややかだった。 もし私がコメントを求められたらなんと言うかな。「ああ、やっぱり、というかんじですね。あのボートを初めて見たとき、ほんとに大丈夫かな、と思ったんですけど、もう出発の5日前だったので何も言えませんでした。その前に助言する人はいなかったんでしょうかね。でもこれを教訓にしてぜひ再チャレンジしてほしいですね」。んー、私も辛口だな。 スレイブハウスの海側に開かれた「積み出し口」は、「二度と戻ることのないドア」と呼ばれている。ムーニーは日曜日の朝、このドアから海に飛び込み、ボートまで泳いで出発した。そして半日もたたないうちに、またこのドアに戻ってきた。何の怪我もなく無事に。そう、彼はこのドアに戻った歴史上初めての黒人だったのかもしれない。そう考えると確かにこの結果は、「もうたくさんだよ、ばかなまねはよして故郷に帰りなさい」という彼の祖先からのメッセージだったのかもしれない。 # by kuripiro | 2006-05-12 05:06
週末またゴレに行った。例の友達の赤ちゃんのお祝いパーティが土曜日にあった。先週末は生まれて2日目の母子と病院で面会しただけで、正式なお披露目はこの土曜日だった。この国では赤ちゃんが生まれると親戚友人を招いて一日中お祝いをする。同じ日にイスラムのお坊さんにあたる人が赤ちゃんに名前を授ける。その子は「マサンバ」と命名された。アフリカの名前だ。子供の名前には部族内の伝統的な名前か、コーランに出てくるイスラム聖人の名前…アブドゥライとかイブラヒムとかアラブ風の名前のどちらかが採用される。
パーティとはいえ、船着き場近くのバーでだらだら飲んでいるだけなので、私は寒さに耐えられなくなって早々にホテルに引き上げて寝てしまった。 翌朝は例のヴィクトールの旅立ちの朝だった。土曜日夕方ゴレに着くと、道端で彼にばったり出会った。これからボートの最終確認をして、スレイブハウスに籠ると言う。元気そうだ。心身ともに準備万端だろう。9時に海に飛び込むと言っていたので私たちは8時には起きるつもりだった。しかし目覚ましなんてないので、案の定寝坊した。目を覚ますとムサが着替えていた。9時20分。まだいるかもしれないから、とムサは私を置いて急いで部屋を出て行った。私は悠長にシャワーを浴びてからあとを追った。前の日ボートが留めてあった桟橋まで行ったが、ボートも彼も影も形も見えず、ムサの姿も見えない。ニューヨークの方向を見ても舟はひとつも見えない。しばらくさまよっていたらムサに呼び止められた。私はスレイブハウスに行くべきだった。ボートはそこに持って行ってあったのだ。ムサはなんとか舟出の1分前に間に合って見送ることができたらしい。チャペレット(お祈りするときの数珠)も手渡すことができたと。「すごかったよ。みんな泣いてて大変だったよ。ジャーナリストもいっぱいいたし。」 日本からも一人取材に来ていたそうだ。 そのあと朝ごはんを食べている間、ムサはパンを握ってぼーっとしてる。「何考えてんの?」「ヴィクトールのこと考えてたんだ」 よほど感動的だったらしい。そのあとカステルに行っても彼はぼーっと遠くの海を眺めていた。 カステルというのはゴレ島の南側にある小高い丘の一画を言う。見晴らしのよい断崖の上にあるので、昔からヨーロッパ列強の要塞に利用されてきた。大きなキャノンが2つ3つ、その下には壕が掘られていて、簡単な部屋や通路が作られている。今はそこにアーティストたちが住み着いている。7年前、ムサもそのうちの一人だった。あの頃のカステルはいつもジャンベやサバールなどのいろんな太鼓や横笛の音が聞こえていて、とてもにぎやかだった。今はすっかり様子が変わってしまった。ミュージシャンがいない。ほんの少ししかいない。塹壕のほとんどは絵描きたちのギャラリーになっている。鳶の声だけがやたらと響く、静かな丘になってしまった。おまけにがらんとして何もなかった地上には巨大なモニュメントが立っていた。奴隷船をシンボライズしたものらしい。こういうものひとつで、無秩序だった丘が今は公園のように見える。 ミュージシャンたちはみな海外へ旅立ってしまったそうだ。日本に行った人もたくさんいる。一度海外でお金を貯めたら、彼らは二度とゴレには戻ってこないだろう。白人のようにバカンスで訪れるだけになる。 午後はカステルの友人の掘建て小屋でお茶を飲みながらだらだら過ごした。RFI(ラジオ・フランス.インターナショナル)が、ある勇敢なアメリカ人が今朝セネガルのゴレ島から手漕ぎボートでニューヨークまでの単独航海に旅立ったことを告げていた。 19時のフェリーに飛び乗ってダカールに戻った。船が岸壁に着いて、私はアッパーデッキから降りた。下にいたムサが小声で言う。「ちょっとちょっと、今朝ボートに乗った人がそこにいるんだけど」「は? どこかのジャーナリスト?」「違うよ、ほら」。彼の指す方を見ると、ヴィクトールにそっくりな人がいる。「だれ?」「本人だよ!」「え?どういうこと?」「わかんないよ! 声かけようとしたら口に指あてて『しーっ』って言う仕草したんだ」。 私たちより少し先に下船したヴィクトールは立ち止まり、こっちに振り向いて「あっちで説明するよ」というようなサインを送った。フェリーは混んでいて船を降りた人たちはみんな同じ方向に歩くので人並みはなかなか消えない。そうしているうちにヴィクトールを見失ってしまった。彼はたったひとりで、荷物も持たず、ゴム長靴を掃いてスタスタ歩いて行った。早く人ごみから逃げ出したいようだった。 「映画だったんだよ!」ムサはすっかり彼に落胆したようだった。「ボートに何かあったんだよ。あれ頼りなげだったもん」と私は彼を弁護した。「そうかなあ」「それしか考えられないよ。」 彼のHPをチェックしてみた。どうやらあの日の午後、彼はセネガル海軍に救助されたらしい。舟底から水が入ったのだ。ボートはニューヨークから運ばれてゴレで下ろされるときに、舟底を傷付けられた。それを直すのに3週間もかかったんだよ、と彼は悔しそうに話していた。その修理がどうやらいいかげんなものだったらしい。ボートは沈んだようだ。彼は近くブルックリンに帰る。再チャレンジするんだろうけど、また半年かけてボート作りから始めるんだろうか? なかなか出発に漕ぎ着けないロングジャーニーである。 ![]() # by kuripiro | 2006-05-10 01:43
ゴレ島の友達に子供が生まれたというので、お祝いに行くことにした。ゴレ島はユネスコ世界遺産に登録されていて、ダカールからフェリーで20分と行きやすいこともあり、セネガル一の観光名所になっている。ここはかつて、西アフリカの奴隷貿易の拠点となっていた場所で、当時の奴隷格納庫が文化遺産になっている。歴史の負の遺産だ。ヨーロッパ人ならセネガルに来たらゴレ島は避けて通れないだろう。
とはいえ、ひとたびスレイブハウスを見学したら、あとは心地よいリゾートを堪能すればいい。ゴレは小さい島で車も馬車もいないから、ダカールと違って空気がきれいだ。乾期でも色とりどりの花が咲き誇り、小径にはブーゲンビリアが日よけを作っている。歩道は石畳なので砂埃も少ない。フェリーに乗る直前までのダカールの喧噪からすると、天国だ。 今回は、私にとって7年ぶりのゴレ。コロニアル風の明るい色の建物で彩られた島が近づいてくる。フェリーから降りると、人々が「ヴィクトールが来てるよ」「ヴィクトールがムサのこと探してたよ」と声をかけてきた。ヴィクトールというその人はフェリーの桟橋の横の小さな入り江にいた。ムサと抱擁し合っておおげさに再会を喜ぶ様子で、遠くからでも彼がアメリカ人だとわかった。 ヴィクトールはニューヨーク在住ブラックアメリカンで、彼の渾身のプロジェクト、「ゴレ・チャレンジ」のためにゴレ島に来ていた。ムサと肩を抱き合いながら、ふだんは人を入れないという仕事場へ私たちを案内してくれた。なんだかわからない道具が散乱していて、船関係の仕事場だというのはわかるがまったく前情報のない私は「いったいここで何をしているの?」と素朴な疑問をぶつけてみた。 「ゴレ・チャレンジ」とは、ゴレ島からニューヨークまで、8ヶ月間で手漕ぎボートで大西洋をたったひとりで横断するというアドベンチャー。2年前から計画していてやっと今回実現にこぎつけた。その2年前の2004年に初めてゴレを訪れたときに彼を手伝ったのが、ムサだった。ということがとりあえずわかった。 「ここの写真撮ってもいい?」 「ああ、ふだんは撮らせないんだけど、特別にオッケーするよ。僕の写真はお金になるからね」 いろんなメディアの取材を受けているらしい。彼の妻は中国人だそうで、私にシンパシーを感じてくれたようで、カメラに向かってポーズまでとってくれた。(本当は人物抜きで撮りたかったんだけど) 「ねえ、ここじゃなんだからゆっくり座って話そうよ」とムサが言うと、「ああ、悪いけど今とてもそんな余裕はないんだ。ぼくは今週の日曜日に出発する。それまでに準備することが山ほどある。まずコンピュータ−にいろんなものをプログラミングしなくちゃけない。いや、何より神経を集中させないといけないんだ。僕はこの航海で死ぬかもしれない。今日が月曜だから、準備期間はもう4日間しかないんだ。土曜日、ぼくはスレイブハウスで一日中お祈りをする。そして日曜の朝9時に海に飛び込む。そして入り江にあるボートまで泳いでいく。ボートに乗り込んだら、ロープをカットしてもらってあとは孤独との闘いだ」。 スレイブハウスは、いわゆる奴隷の倉庫で、男、女、子供、と各部屋に種分けされて奴隷たちは出航の日を待つ。波打ち際に出口があり、そこから船積みされていくが、そのときに抵抗して海に飛び込んだ奴隷もいた。ヴィクトールが出発前に海に飛び込むのは彼らへのオマージュだろう。 「この航海の目的はふたつ。まずひとつはこの島からアメリカ大陸へ送られたぼくらの祖先たち、その途中で亡くなった多くの祖先たちへの追悼。もうひとつは、エイズで苦しむ貧しい人たちを救うことだ。100万人に薬を提供したいんだ。ぼくは兄弟をエイズで亡くしている。もうひとりの兄弟もいま療養中だ。でもアフリカには貧しくて治療もできない人たちが何万人もいる。それを見捨てちゃおけないんだ」。 身振り手振りで、大きな目を見開いて、ときには目をつむって天を仰いで、彼の熱弁は続く。座って話す時間はないけど、立ったままなら永遠に話し続けそうだ。ムサはこの話は聞き飽きているのか、ぷいっと外へ出て行ってしまって、私だけが彼の話を聞くことになった。 「このプロジェクトにはいろんな人が協力してくれている。スポンサーもなんとかたくさんついてくれた。日本からも2社参加してくれている。亡くなる前、ローマ法王に謁見することもできた。彼の庇護も受けているんだ。セネガルではトゥーバ(セネガルのイスラム教の聖地)に行ってシェリン・サリュ・ンバケにも会うことができた(セネガルのイスラム教の最高指導者)。彼は僕のために祈ってくれた。それから副大統領がトゥーバの砂を僕のボートに撒いてくれた」。 それから彼は船に積み込むものを説明してくれた。これが緊急用の脱出ボート。これが ボートから放り出されても2日間は生きていられる救命スーツ。これは医療道具。怪我してもひとりで傷口を縫えるようにね。それから一番大事なコンピューター。舟の上でも通信ができるようにしてある。航海の様子は自分のHPで公開する。僕をサポートしてくれる気持ちがあるなら、メールを書いてくれ。それが一番の励みになるからね。そういって名刺にメルアドを書いてくれた。 私も日本を離れ、友達も家族もいないこの国にやってきて、ときどきひとりで大海原を漂っているような孤独に襲われるときがある。そんなとき自分のパソコンをネットにつないで日本の友達からのメールを受信すると、ぐいっと岸辺に引き戻されたようにほっとする。ヴィウトールの孤独とは比べ物にならないだろうけど、Eメールって本当にありがたいなと実感している。 …こうやっていろんなところでレクチャーしてスポンサーを集めたんだろうな、という彼の講義になんとか区切りをつけて、グッドラックを祈って別れた。プイっと部屋を出たきりムサはずっと不機嫌だ。 「どうしたの?失礼じゃない、話の途中で消えたりして。」 「失礼なのは向こうの方さ。2年間何の連絡もして来ないで。今回たまたま僕がゴレに来なかったら彼は黙って行こうとしてたんだ。このプロジェクトは僕なしには実現しなかったんだよ。2年前、全部お膳立てしてやったんだ。一緒に企画書を書いて、外務省や観光省に持って行った。地元のテレビ局にも紹介して取材してもらった。そしたらBBCも取材に来たよ。そうやって5日間、僕は彼につきあった。で、彼は何の報酬も払ってくれなかった。ごめん、お金がないんだって言って。彼がお金を持ってるのは知ってたけど。」 「でも帰国してからメール書いてたけど途中で通じなくなっちゃったって言ってたじゃない。しようがなかったんじゃないの?」 「そんなの嘘だよ。メールアドレスだって変えてないし」 確かに2年前からムサのアドレスは変わってないし送受信できなくなったこともない。「彼はもしこのプロジェクトが実現したらニューヨークでパーティをやりたいって言っててそのオーガナイズも僕に頼んでいたんだ。セネガルのミュージシャンを集めてくれって」 まあ、あまり期待してもいけないけど、期待させてもいけないな。ヴィクトールのアドベンチャーをどきどきして聞いていたけど、この話を聞いてなんだか醒めてしまった。 気分転換に散歩に出ると、小さな入り江でヴィクトールに再会した。彼は自分のボートのペインティングをチェックしに来ていた。ボートは彼自身の手作りだ。とある企業から、高価なボートを提供したいと申し出があったが、奴隷貿易については一切触れてほしくない、という条件付きだったため断ったそうだ。6ヶ月かけて作られたボートは、小学生の夏休みの工作をそのまま大きくしたような、かわいくて頼りなげなものだった。 彼は再び、興奮しながらボートについて説明してくれた。航海中のエネルギーはすべて太陽光発電。パネルが舟の両縁と鼻先についている。彼の居場所は「漕ぐ場所」と「寝る場所」のふたつだけ。寝る場所は寝返りも打てないようなコンパクトさだ。舟底に食糧や例の補助ボート、救急道具などを詰め込むそうだが、収まりきるのだろうか。ボディには各スポンサーのロゴステッカーが所狭しと貼ってある。こんな小さなスペースのこんな小さなステッカーでは、大したお金は集まっていないのではないか。メディアへの露出はおそらく出発と到着のときだけだろうし。そのうちのひとつの大手薬品メーカーのロゴを指して、 「ここに期待してるんだよね。ここが単独で50万人分の薬を出してくれないかな」 「まだ何の約束もされていないの?」 「うん、まだすべてはこれからだよ。いやー、でもやっとここまで来た!2年かかって準備して、6ヶ月かけてボートを作って、やっと船出のときが来たんだ!長かったよ!」 「そうね、2年前、ムサとたった2人で始めたんだものね」 ムサが相変わらずむっつりして何も言わないので、私が水を向けてみた。 「そうさ、あのときから始まったんだよ。」 「あなたは、まったくひとりでふらっとセネガルにやってきたんでしょ?」 「そうさ、妻にも内緒だったんだ。たまたま彼女が上海に里帰りしてたからね。で、彼女が6時に上海から帰ってきて、僕が3時にセネガルから帰ってたんだよー。はっはっはー!」 すっかり脱線してしまった。ムサは静かに笑っている。私はムサの膝をなでて、帰ろうと促した。ヴィクトールは「アリガトー!!」と大きな声で手を振ってくれた。 そのあと、ムサの知り合いの女性のところでコーヒーを一杯ごちそうになり、またヴィクトールの話になった。彼女は、彼はずいぶん変わったと言う。でも相変わらずなのはお金がないお金がない、コーヒーくれ、100フランくれ、って言うところ。と、その身振り手振りを真似するのが、うまく特徴をとらえていておかしい。こうしてアフリカ人の中でのアメリカ人のステレオタイプができあがっていく。 部屋に戻ってムサに聞いてみた。「まだヴィクトールのこと怒ってる?」 「いや、怒ってないよ。僕の言ったことなんて小さいことさ、もうどうでもいいよ。彼はいいやつなんだ。それはよくわかってる。熱血漢で、正義感が強くて。彼のやろうとしていることはすごいことなんだ。いま彼は自分のことで頭がいっぱいだから、そっとしておくよ。遠くから航海の安全を祈るだけ」 「そうだね、彼はいますごいハイテンションだもん。…いつもああなのかもしれないけど」 ヴィクトールはムサをずっと探してたって言ってたけど、もう彼を必要としてはいなかった。彼にとってはムサは一介のガイドにすぎなかった。 「日曜日、見送りに来る?」 「もちろん来なくちゃ。スレイブハウスからボートまでの間に彼が溺れないか心配だからね」 世の中には、主人公になる人とそうでない人がいる。その違いは素質ではなく、気質なんだと思う。 *ヴィクトールのHP、興味のある方はこちらから。http://www.goreechallenge.com/ ![]() # by kuripiro | 2006-05-04 01:44
なんということでしょう。これまでどんなところへ旅をしても、ぼんやりしてるわりには一度もスリや強盗にやられたことはなかったのに(たぶん)。
金曜日の昼下がり、例のテイラーのところに1時間ばかり出ていて家に戻ると、私の小さいリュックが、死んだ魚みたいにばっくり口を開けて床に放り出されている。まわりには紙やペンや封筒…リュックの中身が散乱している。一瞬、凍りついた。奥の寝室へ入ると、ムサが死んだように寝ていた。「ムサ、何があったの?」「は?」「私のカバン開けた?」「何のこと?」と言いながら彼も現場を確認すると、私たちは強盗が入ったことを認めざるをえなかった。「ドア閉めていかなかったの?」「だってムサがいたから」「だめだよ閉めなきゃ!寝てたんだもん!」「なんで起きないの?!このリュック、ムサが寝てるすぐ横に置いてあったんだよ?!」…。いまさら言ってもしようがない言葉の応酬。 ほんとにムサに触りそうなくらい近くにあったのに、なんで起きないんだろう。まあこの人は火事でも起きないだろう。私もなぜドアを閉めて行かなかったんだろう。ふだん昼間は入り口のドアを開けてカーテンを下ろして風を通すようにしている(下の写真)。留守にするときはわずかの間でも鍵をかけるんだけど、今回はまあムサがいるから寝てても大丈夫だろうと思ってしまったのが間違いだった。 盗まれたのは茶封筒に入っていたお金。セネガル通貨でたしか150000CFA(セーファーフラン、4万円弱)と、日本円で2万円。ふだんは財布にも鞄にもこんな大金は入れていない。いつも私は銀行でちょびっとずつ下ろしているんだけど、うちは銀行やCD機が近くにないので、急を迫られてタクシーでお金を下ろしに行くことも多い。それもばかばかしいので、前回に限ってふだんの倍以上一度に下ろしてしまった。しかもそのほとんどを財布に入れずにリュックに入れて家に置いていたのだ。 6万円といえば、私には大金。こっちのエリートの1ヶ月分の給料だ。ひどい。ひとが一生懸命働いて得たお金を一瞬にしてかっさらっていくなんて。 私以上にムサが激怒していた。「ここを知ってるやつの犯行に違いない!思い当たるふしがいくつかあるぞ。ちょっと奴らの家に行ってくる!」「まさか、自分の友達疑ってるの?」「疑いたくないけど、ありうることなんだ。前にも経験あるんだ」。 ムサが自分の友達を信用していないのは知っていた。ときどき彼らの悪口を言う。「じゃあそんな人たちとつきあうのやめてよ」っていうと、「彼らがぼくを離さないんだ」ってヤクザじゃあるまいし。ムサはびっくりするほど友達が多い。ダウンタウンに行くと1ブロックごとに数人が「ムサ!」と声をかけてくる。でも彼らのほとんどが本当の友達じゃないという。本当の友達なんかひとりもいないとも言う。セネガル人同士も疑いあっている。それもこれも貧しさゆえなんだろうか?貧しいと友情も育たないんだろうか?貧しければこそ、助け合わないと生きていけないんじゃないのか?奪い合うだけなのか? 日本で自分の状況を考えたとき、強盗に入られてまず自分の友人の顔を思い描くなんてありえない。興奮しながら部屋を出ていくときにムサが言った。「まったくアフリカ人ときたら!」。アフリカ人同士が憎み合う。ルワンダやダルフールの原型が、こんな小さな人間関係の中にも宿っているとしたら恐ろしい。
# by kuripiro | 2006-04-30 04:21
セネガルは大統領の任期も長いが、芸能人の息も長い。セネガルのミュージシャンといえば、ユッスーンドゥール。帝王の座はこの20年(?)ゆるぎない。誰かが彼のことを「セネガルの北島三郎」と言っていたけど、紅白でしか見ないさぶちゃんと違ってユッスーはつねに「現役」である。
さぶちゃんに通じるのは、弟子を育てることも忘れないことだ。その愛弟子のひとりが、ビビアン。ユッスーのバックコーラスをしながらソロデビューも果たし、いまやセネガル一の歌姫だ。ご主人はユッスーの実の弟ということで公私ともに「ユッスー・ファミリー」である。のだそうだ。 「今日ビビアンのコンサートあるんだけど行かない?」と誘われるまでじつは私は彼女の名前は知らなかった。そのコンサートはうちから歩いて5分くらいのライブハウスであるというので、ふたつ返事でオッケーした。こっちのコンサートはスタートが遅い。夜中の2時スタート。会場である「イエングレン」というライブハウスはレストランも併設されていて時々結婚パーティーもやっている大きなスペース。そこで「ファーストフード」を食べて時間を潰すことに。「ファーストフード」を待つこと2時間。それでもまだ開場時間にならず、私は外で眠りこけてしまった。2時をまわってやっと中に通された。チケットは3000CFA(700円くらい)。飲み物は別でだいたいがその半額。国民的アイドルのコンサートが700円とは、音楽だけは民主的な国である。 ステージには基本のリズム隊の他にいろんなタムタム(太鼓)、パーカッションを持った男性たちが5〜6人ずらっと並んでいる。音作りはユッスーの世界なので、私は実はあんまり好きじゃない(飽きる!)んだけど、その上にビビアンのボーカルが絡むと新鮮な色がつく。ねっとりしたアンニュイな歌声もなかなかよい。何分の何拍子かもわかんないような波の上を彼女は優雅にスラロームしていく。聞き覚えのある曲が何曲もあって、本物のスターなのね、ビビアンは、と実感した。 ビビアンに負けないオーラを放っていたのが、ダンサーのカティ。ライブ前、外で待っていると、「ムサ!」と声をかけてくる女性がいた。わーだれだろうこのきらきらしたお姉さんは。ムサはこんなきれいな人と知り合いなんだー。と思っていたら、「ジャラじゃないの!? 昔ダンスおしえてあげたのおぼえてる?」と言われてびっくり。こんなきれいなねえさんにダンスをおそわって何も覚えていないなんてショック…。カティはムサの妹(正確には従姉妹)の友達だそうで、昔からダンスが好きでいまや一流ダンサーになっちゃったらしい。アフリカではだれもが踊る。片手で胸のあたりの服をつまみ、片手を高くあげて、がに股で飛び跳ねる、というのが基本のスタイル。カティの飛び跳ねかたは実に軽やかでなんといっても顔の表情が素晴らしい。ダンスでは顔も大事だ。日本でもアフリカンダンスをおしえている人たちがいるが、いろんな習い事に飽きた人には新鮮だと思う。 ステージの後半ではカティはお客さんにダンスをゆずる。ステージ前にいる客を次々ステージにあげて、彼らはここ一番、自分のダンスを披露する。踊り終わると、ビビアンに抱きついたりキスをするファンもいる。暴動にはならない。こうしてアンコールもなく、あっさりと終演。以来、ラジオでもビビアンの声はすぐにわかるようになった。たまたまきのう子守唄を歌っているのを耳にした。コンサートは客を踊らせるためにアップテンポな曲ばっかりだったけど、スローなビビアンのほうが私は好きかも。 # by kuripiro | 2006-04-27 03:59
「クピュール(・ドゥ・クーラン)」て、なんかかわいい響きだけど、これには毎日悩まされいる。フランス語で「停電」のこと。これが毎日、しかも数時間。しかも何の予告もなしに。しかも毎日ばらばらの時間帯に。
「前はこんなに頻繁じゃなかったよね?」と聞くと、発電所の設備が老朽化していて総取り替えの工事のために毎日停電するんだとか。これが10月まで続くという。それならば、深夜にするとか、日中でも時間指定すればいいし、日曜の停電なんかないはずだけど、週末関係なく毎日ある。また一説には、この国の発電は燃料をすべて石油に頼っているので原油高になると燃料費をケチるのだとか。 セネガルのインフラは、IMFの勧告で2000年に大方が民営化された。とはいえそれまでの国の機関がそれらしい名前を持って独立しただけで、通信以外は一社独占状態なので民営化によって国民生活がマシになったかというと、むしろ逆のような気がする。こんなに脆弱な状態でインフラを民営化させるIMFもどうかと思う。 停電時はサイバーカフェも閉まるので、さて行くか、と思った瞬間にパッと電気が消えると予定がすべてくるってしまう。夜中はトイレに行くにもろうそく持参。ろうそくとマッチは必需品。 しかしそんな私生活の些細な不便よりも、国内産業への影響は深刻だろう。これじゃまったく生産性が上がらない。まあ、もっとも、産業らしい産業もないんだけど。農業以外の分野がちっとも伸びてこないし、なんでも輸入品に頼っていて自分たちで作ろうとしない。電化製品にしても車にしても、すべて海外からの中古品。これほんとに動くんだろうか?と思うようなものが日本で売っている新品より高かったりする。 クピュールへの文句はこのように風が吹けば桶屋が儲かる式にどんどん波及していって、言い出したら切りがない。だけど、たまにだったら悪くないか、と思うこともある。夜だというのにムサが大音量で私の嫌いなアルファブロンディをかけているとき。いくら小さくしてと頼んでもほーんのちょっとしか小さくしない。こっちの人はみんなそうだけど、どうしてあんなに大音量じゃないと気がすまないのか? そんなときにプツッと音楽が止まり、電気も消えるとほっとする。それからキャンドル(ここだけ「ろうそく」じゃなくなる)に火をつけて、「ねえ、停電のときはおばあちゃんやおかあさんが子どもたちにお話してくれたでしょう? どんなお話?」とロマンチックな会話が始まる。はずなんだが、ムサは「んー忘れたな」と一言答えて、電池の入ってる携帯ラジオを大音量でかけるのだった。 何年か前、彼の実家で、みんなで外に出てゴザを敷いて座り、星明かりの下でおしゃべりしたり歌ったりしたのも停電のいい思い出。そのときはムサの弟で当時13歳だったカーシムとビンラディンについて議論したな。たしか911の翌年。カーシムは、「アメリカ人は悪い奴らだ、ビンラディンは正義の味方だ」というので「あなたアメリカ人会ったことある?アメリカ人にはいい人も悪い人もいるよ、セネガル人にもいい人も悪い人もいるでしょ。同じだよ」って私のつたないフランス語で精一杯世界平和に貢献しようとつとめたけど。彼は今17歳。すっかり大人になって、夢はパイロットだって。 # by kuripiro | 2006-04-17 22:18
4月10日。
セネガルに来て1ヶ月が経った。株や不動産の収入があるわけじゃないので、何かお金になることを始めないといけません。今日から私は頭の中にあることを行動に移すことにしました。 まずは洋服作り。私がアフリカに惹かれる理由は実はそんなにないんですが、「布」には多いに惹かれています。アフリカにはカラフルでユニークなプリント柄やろうけつ染め、藍染め、タイダイ、織り模様の上に染め柄、などいろんな布があります。こっちの人はたいてい、そういう布をテイラーで簡単に仕立てて着ているので、道行く人を見ているだけでずいぶん楽しめます。(最近は海外の売れ残りや欠陥商品が安く手に入るので、若い男女の中ではTシャツやジーパン姿の人が増えました。中でも、「D&G」としてあり得ないデザインの「D&G」のTシャツや「GUCCI」という大きな文字でできたバックルのベルトがよく流通しています。) さて、そんな魅力的なアフリカの布を使ってオリジナルデザインの洋服や小物を作れないものか…というのはここに来た外国人の多くが考えることでしょう。しかし、実現するのは簡単ではありません。セネガルには町のあちこちにテイラーがいます。彼らはたいへん器用で、大人の洋服上下一着を2時間くらいで作っちゃいます。ただ、相当大雑把です。彼らはパターンを使いません。布を適当に折って、その上にチョークで「シャーッ、シャーッ」とフリーハンドで線を描きます。あとは切って縫うだけ。縫い方も相当雑です。日本や中国からの中古の足踏みミシンを使っていたって、その気になれば糸調子も調節できるし縫い始めと縫い終わりの糸の始末だってできる。「その気」がないのです。縫い代も断ちっぱなし。ロックミシンがないのです。たまーに見かけるんですが、流通しないということは、縫い代の始末の必要性を客も感じていないんでしょうか。 そんなわけで、メイドインセネガルの布製品を海外で売るのは非常に難しいと思われます。ロックミシンや技術は与えられるけど、「その気」だけは本人の問題なので。いまや世界の縫製工場、中国も、かつては粗雑な縫製しかできなかったけど、その気になってうるさい外国人の注文に答えてきたからこそ、いまがあるわけで。 こういう事情は今回来る前からわかっていたので、ミシンもトルソーも裁縫道具も全部船便で送るつもりでした。でもばたばたしているうちに出発になり、手荷物も手いっぱいになり、洋裁関係のものは全部断念してきました。あとで後悔するのは重々承知で。まあ何ごとも経験。サバイバルしてみます。 近所にトルソーのあるテイラーを見つけたので、相談してみました。私がパターンを作るから、それを縫製してくれないか、そのパターンを作る間、ここのトルソーやなんかを使って作業させてくれないか、と。「パターン」、フランス語で「パトロン」、これをわかってもらうまでしばらくかかりましたが、やはり大雑把な感じの女主人のアイシャは軽く引き受けた。しかしそのあと1時間もしないうちにやっかいなことになった、と思ったんじゃないかな。このわけのわからん日本人は何かと注文つけてくる。「ハサミ、違うのない?」この人たちの使っているハサミは二つの刃を留めるビスがはじっこいっぱいまでゆるんでいる。ヌンチャクの棒くらい2つの刃が離れている。ビスは錆びていてしまらない。彼らはこれで器用に布を切っているが私には無理。すると、もうひとつのハサミを貸してくれた。これは刃はくっついているけど錆びていてさっきのやつより切れない。ほんとに切れない。「ハサミ、いくら?」「4000フラン」「ひぇー高いね」買うのはあきらめた。日本円で1000円くらいだけど、電気代ひと月分くらいもハサミ一丁にかける気になれない。「待ち針ある?」「待ち針い?」「縫う針じゃなくて留める針」「ああー、これ?」といって道具箱の中からひとつ取り出したのは、日本だと畳んであるワイシャツなんかを買うとついている小さい釘みたいなピン。「そうそう、これ!(すぐ妥協)」「これ1箱買ってきて」と女主人が縫子の女の子に頼む。かなり時間が経ってその子は縫い針1パックとともに帰ってきた。「違う違う」。女主人とともに首を振る。悪いけどもう一度行ってもらった。今度はミシン針とともに帰ってきた。女主人は仕方なしに道具箱をひっくり返して、なんとか5本のムシピンをかきあつめて私にくれた。どれも錆びているがまあ文句は言えない。「仮縫い用の糸ある?」「仮縫いい?」そっか、仮縫いなんかするわけないよな。なんでもいいから白い糸を買ってきてもらった。ここではトルソーも出来上がった服を着せるマネキンの役目しか果たさない。なので、胸はアンパン2つ入れたみたいにぽこんと急激に突出しているし、しかも左右の大きさや位置がばらばら。腰も急にぼよん、とでかくなる。まあ日本人とは体型が違うからどっちみちこっちのトルソーを使うのは無理がある。 というわけで、初日は布の裁断までして持ち帰り、家の鏡の前で裸になって布を当てては1つだけ持ってきたホテルのアメニティーの裁縫道具の中の縫い針を待ち針代わりに、工作用の小さいハサミを裁ちバサミかわりに、ままごとのようなテイラーごっこをしました。もう挫折しそうです。 # by kuripiro | 2006-04-10 01:34
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